わたしの死にたいと思う心を止めるもの

うつと診断される前からずっと、何か常に、漠然と死にたいと思うことが多かった。そして最近はもう常にそう思っている。生きるのが本当に苦痛だ。以前のように明らかに暗く落ち込んだりすることがなくなったし、それなりに毎日楽しく過ごしているのに、逆にその思いは心の中に常在するようになっているような気がする。


別に積極的に何らかの方法を用いて実際に自殺を図ろうという気はないのだ。一酸化炭素中毒なんか苦しみが少なくっていいのかななんて冗談半分に思ったりはするが。何事にも気力が衰えているので、実行する気にすらならない。それに電車に飛び込まなくても、ビルから人通りの多い通りめがけて飛び降りなくても、何かしら必ず人に迷惑をかけるだろう。それがたまらなく嫌だ。


しかしそれよりも強く、わたしを自殺から引き止めているものがある。以前同級生が自殺を図ったことがあったり、親戚で自殺した人などもいる。そうすると周りの人のショックというのは計り知れない。なぜと思う気持ちと、どこかでそれを食い止めるチャンスがあったんじゃないだろうかというひどい後悔と自責の念に駆られるのだ。同級生が自殺したときはその人はわたしとはさほど親しくもなかったのに直前に不自然な会話を交わしたせいもあり、その思いはいまだに消えない。今思うと、ただの同級生という程度のわたしに掛けてきた彼の言葉は後になって思えばわたしにどんなことでも良いから何かしらの救いを求めていたように思えてならないのだ。その時のわたしは怪訝に思っただけで彼に何の助けも差し伸べる事はなかった。


だから、わたしはオットを「妻に自殺された夫」にしたくないし、両親を「娘が自殺した親」にしたくないし、弟を「姉が自殺した弟」には絶対にしたくないのだ。自分は死んじゃえばそれで終わりかもしれないが、残された人はそれを一生背負っていかなくてはならない。これほどの大迷惑が他にあるだろうか。聖書にあるように、自殺ってやっぱり罪なんじゃないかと、そう思うのだ。


だから、自分の存在意義を見失っても、日々の行いが誰のためになっていると思えなくても、息をするのが面倒であっても、毎日わたしは生きている。朝早く起きてアルバイトへ行き、帰ってきて疲れ果てて惰眠を貪るだけで家事すら十分にできない役立たずであっても、アルバイト先の人々やオットに迷惑ばかりかけていても、とりあえず生きている。いつかどこかで誰かの役にたつ人になれないかという薄い薄い希望を抱きつつ。