枚挙にいとまがない教師によるいじめ

福岡の中2男子自殺の報道が下火になっている。時とともに忘れるようではいけない。一方、ほんの少し、ホッとしている自分がいる。報道があるたびに、つい自分の過去の体験とオーバーラップしてしまい、必要以上の怒りを感じてしまう。


親が転勤族であったため、頻繁に転校をしていたわたしは、いじめられっ子であることが多かった。生徒からのいじめもあったが、よく覚えているのは教師からのいじめだ。子供の取るに足らない幼稚ないじめ(と慣れると思うようになった)なんかより、よっぽど強力で傷も深かった。20年以上も昔のことなのにいまだ恨みに思っている。


朝礼で毎朝、先生のお話、という項目があった。
「皆さん、ランドセルは両手が空いていて転んだとき手をつくことができるので、とても良いのです。他のかばんではいけません。きちんとランドセルを背負って学校に来ましょう」
なぜこんな話をするのか不思議である。ランドセルを持っているのに使わない子供などいるだろうか。事実ランドセルで学校に来ない子供など誰もいなかった。転校生のわたしを除いては。
最初に入学した小学校で、肩掛けのかばんが支給され、そこではそれが標準だった。ほどなく転校をしたその学校ではそんなものはなく、逆にランドセルでないわたしはひどく目立った。「なんで深森さんはランドセルじゃないの?」とやっと聞かれなくなった頃にこれである。当然、このお話のあとは「ランドセルじゃなくちゃいけないのに、わーるいんだ、悪いんだ」となり、いじめられる転校生の出来上がりである。


また別の学校に移ったあとの話。
その頃のわたしは詩を書くのが趣味だった。取るに足らない内容ではあったが、わりと思ったことを率直に綴っていたので、あまり人には見せられず、小さなノートにこっそり書いていた。あろう事かそれを気づかないうちに床に落としてしまった。それを当時の担任が拾い、「誰んだこれ?」あっと気が付いて名乗り出ようとする間に担任はノートを開き、鼻で一笑しおどけた調子で読み上げた。クラスは爆笑。「気持ち悪い」「バッカジャネーノ?」。このクラスにはいじめっ子グループがいて何人かがかわるがわる標的になっていたが、この日からターゲット変更。


ある学年の年度初日、始業式の日。
わたしの姓はやや複雑な字を含んでいた。何通りかの字体があり、一般的に使われているものは実は略字で正式な字体ではない(今は知らないが当時漢和辞典にも載っていなかった)。そのときの新担任が、「これ、字間違ってるよ」「そんなことありません。親もこう書いています」「嘘だよこれ違ってるよ。自分の名前間違って書くなんて恥ずかしいやつだな」恥ずかしいのは教師の方なわけだが。
これで、ここでもキャラクター決定である。「自分の名前も書けないバカ」。この手のものは一度決まってしまうともう取り返しがつかない。どんな抗弁も効かないのである。


もう本当に枚挙にいとまがない。全部書いたら長編大作ができるだろう。ここには書かないが身体的特徴などをあげつらった教師さえいる。きっかけはたいしたことではなかったりするが、必ず生徒によるいじめに引き継がれ子供心に深い傷を作るのである。また、自分の体験の多くが福岡の事件とも共通するので不思議である。担任が皆40代後半のベテランであること、一人の生徒を犠牲者に教師がクラスのウケを取ること、そしてその教師のいじめを生徒が引き継ぐことである。


福岡のくだんの教師は優秀な教師という評価であったそうである。
なんかおかしいんじゃないだろうか。
いじめ0件なんてへそが茶を沸かす。
わたし一人でこれだけ例があるのにそんなに突然キレイになくなるはずがあるものか。0などという調査データに何の疑問も抱かない文部科学省も相当腐っているとしか言いようがない。